なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか 藤原智美

nazeSonokowa

絵を描く人間にしてみれば、こういう話題には敏感であるべきではないだろうか。

「子供たちの絵が壊れてきている」というある幼児教育現場の方のコメントとともに、最近の幼稚園児の絵が変調をきたしている、という訴えとその原因について考察された一冊が、祥伝社文庫で出ていた。

僕が同書を本屋でたまたま見つけてレジに持って行ったのは、以前ラジオであるDJが話していたことを思い出したからだ。

そのDJの知り合いに保育士がいて、あるクラスの子供に母親の絵を描いてもらったところ、顔がなかったという。

頭の輪郭はあるのに、のっべらぼう。

その保育士はその子に理由を聞いても、「顔」がどういうものか認識できていない様子。

これはおかしい、と思ったその保育士は母親と面談してもっと子供と接触するように、と要請したらしい。

そして、実際にこの母親は子供と話したり一緒に行動する時間を増やしたところしばらくすると、ちゃんと母親の顔を描くようになった、という。

これを聞いて思い出したのが、神戸連続殺傷事件の少年の話で、確か小学生の時だったと思うが(手元に資料がないので…)、母親の絵を描いたときに、「お母さんは時々角が生えます。」と母親の頭に鬼の角をつけて描いて提出し、教師に書き直さされた、という話だ。

神戸の事件については冤罪説もあるので、これ以上は突っ込まないがこの時点で親子関係に問題があるのかも、と推測できた教員がいれば、この事件の展開は違っていたかもしれない。

もっともこの本の対象とは年齢の開きがあるし、こちらの場合は「壊れた絵」ではなく「壊した絵」だから同列には考えられないが。

この本の内容に戻ると、少なくない幼児が、自分や親の姿を絵に描いても腕を描かないらしい。

ひどい時には足もなく、三角形の胴体に丸い頭がのっかっているだけというのもあり、頭でも、鼻がないだの耳がないだのといった絵が多く、それもここ数年で急増したという。

もちろん僕だって絵描きの端くれであるから、少々変な絵を描いたところで批難する気などはない。

が、ピカソやバスキアの話ではないのだ。

「実際にないもの」を「ある」として描くのなら才能といってもいいだろうが「実際に目の前にあるもの」を知覚できない、とすれば、やはりおかしい、と言わざるを得ない。

特に、絵を描くときは(健常者なら)当然腕を使う。

ところが、その自分の腕を使って自分の姿を描いておきながら、自分の姿を描くために使った当の自分の腕が「見えていない」とはどういう精神状態なのか、想像すると慄然とする。

単に「描かない」のではなく、「見えていない」から問題なのである。

しかも、絵だけが問題なのではなく、数字や音節の把握能力も著しく低いこともありまた非常に無気力。

それでも「お受験」で国立の付属小学校に入学していくという。

寒々しい話ではないか。

上記のような絵を描く原因としては、親の過干渉があげられている。

子供がする前に親が先に全部決めて、はい、こうしなさい、次はこれ、失敗したら怒りまくる、というバターン。

神戸の事件も長崎のバスジャックも、秋葉原の加藤容疑者の母親もこの類だったらしい。

こうした心理学的解釈、あるいはバウムテストなどの描画実験などにどの程度の学問的正当性があるのか、門外漢の僕には分からないにせよ、一時が万事こんな調子では、感情も言葉も出てきやしないだろう。

何も表出しないことを強制されているんだから。

かくいう僕の母親も同類で、習い事も塾も、さらに塾を変わる時の「理由づけ」まで決めて、「前の塾の先生には体調が悪くて病院にいくから辞めると言っておいたから、次からこっちの塾に行きなさい」というような人間だった。

そういう「策略」がかっこいいと思っているのかもしれないが、「策略」が成功するのは周囲よりも優秀な人間だけであって、バカがやっても文字通りバカにされるだけである。

この時も、前の塾にいた同じ学校の同級生には、学校で、「塾の先生が、お前病院行くから塾辞めたって言うとった」と言われ、「ごめん、うちの母親、頭おかしいから…」と言い訳していたぐらいで、僕が黙って従ったのは母親が精神に恐惶をきたすのを避けるためだけである。

親である自分は子供より絶対に頭がいい、と信じ込んでいる親には子供が「策略」に乗ったふりの「演技」をしているとはまず想像つかないだろう。

こんな親だからして、僕なんぞは吃音であるが、まあ今更言っても仕方ない。

問題なのは、これからの子供たちだ。

モンスター・ペアレンツだのヘリコプター・ペアレンツだのはまだ少数だと思うが「フツー」だと思っている親だって、先にあげたような事件の遠因になることがある。

一歩間違えれば自分だって、と思うと、彼らを批難できないと感じる僕はこの本に登場するような子供たちが将来がどうなるのか、暗澹たる気分になるが直接、彼らにできることはないにせよ、受け皿みたいなことが何かできないか、人間嫌いの僕ですら考えさせられた。

先にあげたDJの話を聞いてから、街で子供の絵の展示会などやっていると思わず足を止めるようになっていたが、これからもちょっと気をつけてみたいと思う。

ところで、この本の中には「いまの子はみんな「人」を描くのが大嫌い」らしい。

…僕も描けません(^^;)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です